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東京高等裁判所 平成4年(う)394号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人林豊太郎作成名義及び同高山俊吉作成名義の各控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

二  林弁護人の控訴趣意第一及び高山弁護人の控訴趣意第一(理由不備ないし理由齟齬の主張)について

所論はいずれも、要するに、次のようなものである。すなわち、本件において、被告人及び原審弁護人は、被告人運転の軽四輪貨物自動車とA運転の自動二輪車とが接触したこと自体がないと主張し、被告人に過失のあったことについても全面的に争っているにもかかわらず、原判決は、訴因に掲げられた事実をそのまま罪となるべき事実として認定判示しながら、ただ単に証拠の標目として形式的に一定範囲の証拠を掲げるのみで、争点について何らの実質的判断を示していない。かつまた、原判決が証拠の標目として掲げる各証拠からは本件公訴事実が立証できていないのに、原判決には、いかなる証拠によってどのような判断をしたのかということなど、証拠説明も一切していない。このように、核心的部分について何も実質的検討もなさず、証拠の分析もなさないまま、実質的理由を付さないでなされた原判決には、刑訴法四四条一項に違反して、理由を付さなかった違法があり、また、原判決が争点に関する具体的判断を行わなかったことは、原判決の挙示する証拠から判示事実を導くには合理的根拠がないことを示すものであり、したがって、原判決には同法三七八条四号にいう「理由にくいちがい」がある、というのである。

この点、本件起訴状に記載の訴因に掲げられた事実をそのまま罪となるべき事実として認定判示した原判決には、証拠の標目の項において一定範囲の証拠が挙示されているだけで、争点について実質的判断を示したり、証拠説明ないし心証形成の具体的理由を示すなど一切していないことは、所論指摘のとおりである。しかしながら、同法三三五条一項が同法四四条一項の特別規定として、有罪判決の理由中で、罪となるべき事実の認定資料となった証拠の標目を挙示することを定めているのは、罪となるべき事実の認定が証拠によらないで認定されたものでないことを明らかにさせ、証拠裁判の原則を保障するためのものであり、それ以上に個々の証拠の内容や証拠価値などに関する細かい判断を示すことまで求めていないのは、自由心証主義のもとでは、右程度の保障で足りると考えられるからである。したがって、被告人(弁護人)が所論のように事実関係につき全面的に争っているにもかかわらず、原判決が、判決理由中で、争点について実質的判断を示したり証拠説明などを行ったりせず、「証拠」の項に原判決が認定資料とした証拠の標目を掲げただけに留めたことも、その挙示した証拠が、原審で適法に取り調べられた証拠であり、また、内容的に、実質的な証拠価値は別として、原判示の事実の認定資料となる証拠であることに照らし、刑訴法三三五条一項に定める法律上の必要要件を充たしているということができ、同法四四条一項に違反するものでないことも明らかである。なお、所論は、原判決が争点に関する具体的判断を行わなかったことは、原判決の挙示する証拠から判示事実を導くには合理的根拠がないことを示すものであるというのであるが、右にみたとおり、有罪判決においては事実関係に関し争点につき具体的判断を示すことは必要的でないことに照らし、右所論は、全く独自の見解というほかない。

以上要するに、原判決には、所論指摘のような趣旨で理由を付さなかった違法があるものではなく、所論のように同法三七八条四号にいう「理由にくいちがい」があるものでもない。論旨はいずれも、理由がない。

三  林弁護人の控訴趣意第二及び高山弁護人の控訴趣意第二(事実誤認の主張)について

1  所論はいずれも、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、被告人が、軽四輪貨物自動車を運転して、先行するA運転の自動二輪車を追い越すに際し、同車の動静を注視せず、同車との十分な間隔をとらないまま早めにハンドルを左にきって同車の進路前方に進入しようとした過失により、自車左側面の後部をA運転車両の右ハンドルグリップに接触させ、同人を車両もろとも路上に転倒せしめたとの事実を認定判示しているが、被告人運転の軽四輪貨物自動車の左側面がA運転の自動二輪車の右ハンドルグリップなどに接触したことなどは一切なく、また、被告人が、A運転の自動二輪車との十分な間隔をとらないまま早めにハンドルを左にきって、自車を同車の進路前方に進入させようとしたことも全くないから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の誤りがあるというのである。

2(一)  そこで、原審記録及び証拠物を調査して検討すると、まず、原判決挙示の関係各証拠によれば、次のような事実が客観的に明らかである。すなわち、

(1) 被告人は、昭和六二年七月一七日午前一一時三五分ころ、軽四輪貨物自動車(以下、「被告人車」という。)を運転して、長野県伊那市大字伊那部一〇九一番地付近の市道上(以下、「本件道路」という。)を中央橋方面(西方)から日影方面(東方)に向かい、時速約三〇キロメートルで進行したこと

(2) 折から、A(昭和五年一二月九日生)の運転する自動二輪車(以下、「A車」という。)が、被告人車と同一車線上を同方向に向かって、被告人車よりやや遅い速度で先行していたこと

(3) 被告人は、A車の右側を通って同車を追い越したが、被告人車がA車より前方に出た直後ころ、Aが、右車線上のやや中央線寄りの場所で、自動二輪車ともども右側に転倒したこと(以下、「本件事故」という。)、倒れた状況は、足を自動二輪車で挟んで、自動二輪車の下敷きとなった状態でうつ伏せに体が倒れ、頭が中央線側に位置し、顔が東向きとなっているというものであったこと、また、Aのかぶっていたヘルメットはあご紐が切れて路上に転がっていたこと

(4) Aは、その後まもなく、救急車で病院に運ばれ、治療を受けたが、翌一八日午前五時四〇分ころ、同県駒ヶ根市赤穂三二三〇番地所在の昭和伊南総合病院において、脳挫傷により死亡したこと

(5) 本件道路は、縁石により歩道車が区別された幅員約七・〇五メートルのアスファルト舗装の平坦な直線道路で、白色破線の中央線によって上りと下りの車線が区分され、見通しは上り下りともに良好であったこと

(6) 本件事故直後、本件道路のA車の進行していた車線上には、A車が転倒していた地点の前後に長さ約四・五五メートル、その手前(中央橋寄り)に長さ約一・一五メートルの擦過痕が印象されていたこと

(7) 被告人車は、長さ約三・一九メートル、幅約一・三九メートル、高さ約一・六九メートルの軽四輪貨物自動車であり、その後部荷台には上部を全体的に覆う緑色ビニールシートが掛けられていたこと、なお、右シートは、全体として、泥やほこりなどが付着して汚れていたこと

(8) 本件事故後、荷台に掛けられた緑色ビニールシートの左側面には、擦過痕とひっかき傷様の痕跡があったこと

(9) その擦過痕は、地上高約九七・五センチメートルから約九八・五センチメートルの高さの間を、荷台最後部を基点として前寄りに約一二センチメートルの位置から約五六・五センチメートルの位置まで、全長約四四・五センチメートルにわたって、幅約一・一センチメートルの八個余りの長短の断片により断続的に印象されたものであって、表面には擦られたように黒っぽい溶融した物質が付着し、断続的に印象された長短の各断片はいずれも後端に滓状のものが溜まったような状態になっていたこと

(10) ひっかき傷様の痕跡は、地上高約九八・五センチメートルの高さで、荷台最後部を基点として前寄りに約三二センチメートルの位置から約八二・五センチメートルの位置まで、全長約五〇・五センチメートルにわたって飛び飛びに存在し、傷痕の始まる部分ではシートの裏地が現れるほど抉られ、その一部には穴が開いている状態で、個々の傷痕の後端にはかき取られたシート材の溜まり部分があったこと

(11) A車は、長さ約一・九〇メートル、幅約〇・七二メートル、高さ約一・〇五メートルの自動二輪車であること、また、A車を正立状態にした場合、右ハンドルグリップの地上からの高さは、その中心で約八九センチメートル、右ブレーキレバーのそれは、その先端部分で約九一センチメートル、ハンドルを左に一杯にきった状態での地上からの高さは、ハンドルグリップが約一〇四センチメートル、ブレーキレバーが約一〇五センチメートルであること

(12) 本件事故後、A車は、サイドミラーの鏡が割れて脱落し、前輪の泥除けの先端が左側に偏って歪み、左側面のレッグシールドには地上高約〇・四メートルの高さに割れがあり、右側面のレッグシールドのへりの部分には地上高約〇・三メートルから約〇・五八メートルの高さに擦過痕があり、ブレーキペタルにも擦過痕があり、後ろのナンバープレート真下の泥除け部分に凹損があって、さびが生じている状態であったこと

(13) また、本件事故後、A車の右ハンドルグリップの先端外側面には幅約一・一センチメートルの擦過痕が、右ブレーキレバーの前面には削り取られたような擦過痕がそれぞれ存在し、同ブレーキレバー先端の直径約一・五センチメートルの球形状の外側面にはボールペンの先ぐらいの大きさの緑色の付着物が付いていたこと

などの事実が認定できる。

(二)  本件においては、右(一)認定の客観的な各事実を総合しても、右(一)の(3)認定のように、被告人がA車の右側を通って同車を追い越して、被告人車がA車より前方に出た直後ころ、Aが、右車線上のやや中央線寄りの場所で、自動二輪車ともども右側に転倒したことにつき、被告人車がその追越しに際し何らかの原因を作ったのか、あるいは何らかの影響を与えたのかどうかなど、直ちに認定することは困難である。もっとも、Aが転倒した際の状況や、本件事故によってA車がさほど破損していないことなどに照らし、被告人車がA車の車体に直接衝突するという事態が生じたものでないことは窺える。

また、原審で取り調べた関係各証拠によれば、本件事故の模様を直接に目撃したのは、本件に際し自動車を運転して対向車線上を被告人車やA車の反対方向から走行して来ていたBであるが、同人の原審公判廷における証言によっても、A車がいかなる原因で転倒したのか明らかではない。すなわち、同人は、原審公判廷において証人として尋問を受けた際、次のような供述をしている。自分は、自動車を運転して時速三〇キロメートル位の速度で、事故現場から六〇〇ないし八〇〇メートル位離れた場所にある店の前から日影方面に向かって進行していた。被告人車を始めて見たのは、一キロメートル位前方である。被告人車の速度は、時速二〇ないし三〇キロメートル位であった。バイクを見たのは、倒れる寸前くらいだったか、あるいは五〇〇メートル、三〇〇メートル位離れた地点であったかもしれない。バイクの走り方は、大きな蛇行運転ではないが、ややふらつくような感じであった。バイクの速度は、かなり遅く、時速一〇キロメートル位であった。バイクがセンターラインの方に寄って来たとき、被告人車がバイクを追い越そうとして、センターラインを越え、自分の走る車線の中に左側の車輪も全部入る程度まで入って来た。自分として被告人車がバイクを追い越そうとしているのに気付いたのは、その時である。被告人車とバイクが平行して走る状態になったかどうかはわからない。被告人車は、ゆっくりとした感じで元の進行車線の方へ戻って行った。そのため、自分は、被告人車に視界を遮られて、バイクが転倒した状況そのものは目撃していない。被告人車とすれ違った直後、自分は、右前方にバイクの倒れているのを発見したので、一〇〇メートル位進行したところで自分の車を止め、走ってバイクのところに行った。バイクを運転していた人は、バイクの下敷きになって倒れていたので、自分がバイクをどかし、「おいさん、おいさん」と声をかけたが、その人は昏睡状態になっていて反応がなく、高いいびきをかいていた。Bの証言は、以上のような趣旨のものである(なお、Bは、当審公判廷においても証人として尋問を受けたが、全体的には、原審公判廷における右証言と同趣旨の供述をし、ただ、被告人車とバイクの位置関係に気付いたのは、被告人車が追越しにかかる少し前で、被告人車がバイクの後方をいわゆる追従進行しているのを見たという趣旨のことを述べている。)。

なお、本件当時、事故現場近くのビニールハウスで農作業をしていたC子及びDも、原審公判廷における各証言中で、それぞれに、自分は、物が倒れる音と物が転がる音で本件事故に気付き、道路へ出てみると、被害者がバイクと一緒に倒れていたという趣旨の供述をしているが、同人らがAの転倒した際の状況を一切知らないことは明らかである。

(三)  被告人も、検察官に対する各供述調書(原審検察官請求証拠番号乙第二ないし第五号。以下、甲乙の番号は、原審検察官請求証拠番号を示す。)中で、自分は、先行のA運転の自動二輪車を認めて、そのバイクを追い越すために自車のハンドルを右にきって、道路の中央線の白線上に自分の体が位置するようにして自車を進行させた、しかし、自車がバイクの側方を通過する際、右ハンドルを握っているAさんの右腕の一番外側からさらにその横に約五〇センチメートルくらいの間隔をおいて通過しており、A車の横に十分な間を置いて通過したので、自車がA車に接触するはずはないと思う、接触した感触もなかったし、接触した音も聞いていない、被害者のバイクを追い越してから、ハンドルを徐々に左にきって白線から左の方に進路を移したが、進路を左に移すに当たっては、対向車が間近に迫って対向車と接触の危険を感じて、あわててハンドルを左にきったという状況はなかった、追い越してから、ガタンというバイクの倒れる音がしたので、自分の車の左側のサイドミラーで後方を見ると、バイクが車線のほぼ中央に倒れたことがわかった、自分は、自車を車道の左端に止めて、バイクの倒れた所に戻ったという趣旨の供述をしている。被告人は、原審公判廷における供述中でも、A車の横を通過するとき間隔が一メートル位あったと述べるほかは、検察官に対する右供述と同趣旨の供述をしている(なお、被告人の当審公判廷における供述も、原審公判廷における供述と同趣旨である。)。

もっとも、司法警察員作成の昭和六二年七月三一日付け実況見分調書(甲第八号)によると、同月一七日に被告人が立ち会って行われた実況見分に際し、被告人は、A車を追い越した際の状況について指示説明を行った中で、自分がハンドルを左にきった地点に続いて、「相手と接触した地点は〈×〉地点」として、本件道路の北側道路沿いにあるビニールハウス前の歩道上に設置された消火栓から約三・七二メートル、同消火栓から一〇メートル西方の地点から約七・五五メートルの地点を指示していることが認められる。しかしながら、証人川喜田惇男の原審公判廷における供述によると、右実況見分に際し、被告人は当初、被告人車とA車とが接触したことは認めていなかったが、実況見分を行った川喜田惇男巡査部長が、被告人に対し、被告人車のシートに残る擦過痕などや本件当時の被告人車とA車の位置関係などから、このような接触になるはずという説明を行い、結局、被告人がその説明を受け入れてそのとおり接触地点として指示したことが窺われる。したがって、右実況見分の際の被告人の、接触地点に係る指示説明は、被告人の記憶に基づくものとみることはできない。また、被告人は、司法警察員に対する供述調書(乙第一号)中において、「私も私のトラックがまちがいなく、相手のバイクと接触してしまったのだということがわかりました」と述べているが、その前後の供述記載と合わせてみれば、被告人の右供述は、警察官から説明を受けた当時の客観的状況により被告人車がA車に接触したことが認められるということは理解できた、という趣旨のことを述べたに留まり、被告人自身として、被告人車とA車とが接触したことの記憶があるということを述べたものではなく、これを自白とみることは到底できない。

(四)  以上みたように、前記(一)認定の客観的な状況に、前記(二)掲記の目撃者らの証言及び右(三)掲記の被告人の供述を総合しても、A車の転倒の原因が何であったか、直接にこれを認定することはできない。しかし、前記(一)の(8)ないし(10)認定の、被告人車の荷台に掛けてあった緑色ビニールシートに残る擦過痕やひっかき傷様の痕跡の付着位置や形状、大きさなどをみると、幅約一・一センチメートルほどの物体が地上高約九七・五センチメートルから約九八・五センチメートルの高さの間を、被告人車の荷台最後部を基点として前寄りに約五六・五センチメートルの位置から約一二センチメートルの位置まで、全長約四四・五センチメートルにわたって、断続的に擦れるように接触しながら前方から後方に移動し、さらに、その擦過痕の上方を地上高約九八・五センチメートルの高さで、荷台最後部を基点として前寄りに約八二・五センチメートルの位置から約三二センチメートルの位置まで、全長約五〇・五センチメートルにわたって接触面積のあまり大きくない物体が右シート上をひっかくように接触しながら前方から後方に移動したことが窺われる。そして、右事実に加え、前記(一)の(11)認定のA車の形状、とりわけ、ハンドルグリップやブレーキレバーの位置関係、さらに前記(一)の(13)認定の右ハンドルグリップの先端外側面に残る擦過痕、右ブレーキレバーの先端の球形状の外側面に緑色の付着物が付いていることなどを合わせ考えると、被告人車の荷台左側面の右シートの擦過痕とひっかき傷様の痕跡は、A車の右ハンドルグリップと右ブレーキレバーが、被告人車の荷台左側面の右シートに接触したことによって生じた可能性のあることが十分に認められる。そして、長野県警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員細井要一作成の鑑定書(甲第二八号)及び証人細井要一の原審公判廷における供述(以下、併せて「細井鑑定」という。)よると、細井要一は、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕部分にA車の右ハンドルグリップの構成物質が付着しているかどうか、赤外線吸収スペクトルという測定方法によって検査したところ、右シートの擦過痕部分に右ハンドルグリップと同種の合成樹脂が付着しているという鑑定結果が出たことが認められる。したがって、右シートの擦過痕の形状等から窺われる客観的状況に細井鑑定を総合すると、被告人車がA車の右側を通過する際、A車の右ハンドルグリップの先端が被告人車の後部荷台に掛けられた緑色ビニールシートに接触したことが肯認できるように思われる。

もっとも、右のように認定するに当たり、疑問が残るのは、細井鑑定及び鑑定人小林寛也作成の鑑定書(甲第五一号)によると、A車の右ブレーキレバーの先端に付いた緑色の付着物は、被告人車の後部荷台にかけられた緑色ビニールシートと同種のものとは認められないということである。すなわち、A車における右ハンドルグリップと右ブレーキレバーの取り付け位置からみると、右ハンドルグリップが被告人車の後部荷台に掛けられた緑色ビニールシートに接触したのであれば、右ブレーキレバーも同様に緑色ビニールシートに接触したものと考えられるのに、右ブレーキレバーの先端に付いた緑色の付着物が緑色ビニールシートとは異なる物であるということは、右ブレーキレバーがそのシートに接触したことを裏付けるどころか、それに疑いを抱かせることになるからである。加えて、原審鑑定人内田貞夫は、同鑑定人作成の鑑定書(職権証拠番号第一号)及び証人内田貞夫の原審公判廷における供述(以下、併せて「内田鑑定」という。)において、力学的分析によると、被告人車の後部荷台に掛けられた緑色ビニールシートの左側面に残る擦過痕やひっかき傷様の痕跡が、右ハンドルグリップと右ブレーキレバーが接触したことによって生じた可能性は極めて低いとの鑑定意見を出している。

とはいえ、本件緑色ビニールシートの擦過痕部分にA車の右ハンドルグリップと同種の合成樹脂が付着しているということを前提とする限り、右擦過痕がA車の右ハンドルグリップとの接触によって生じたと認定することは十分に可能のように思われる。しかもこの点、先に検討したように、本件緑色ビニールシートの擦過痕は、その残っている位置、形状、大きさなどと、A車のハンドルグリップやブレーキレバーの形状、大きさ、さらにはこれらに残る擦過痕などに、被告人車の進行状況や被告人車とA車の位置関係を合わせ考えると、被告人車がA車の右横を後方から通過して行く際に、A車の右ハンドルグリップと右ブレーキレバーが接触したことにより生じたとみるのが、もっとも合理的な説明であり、仮に本件で生じなかったとすると、いついかなる状況で右緑色ビニールシートの擦過痕が生じたのか極めて説明困難と思われる。また、内田鑑定も、力学的分析によって、A車のハンドルグリップやブレーキレバーが本件緑色ビニールシートと接触する可能性が低いと判断したものであって、接触する可能性が全くないというものではない。

(五)  したがって結局、原審で取り調べた関係各証拠を検討する限りにおいては、被告人車がA車を追い越そうとした際、被告人車の左側面の後部をA車の右ハンドルグリップに接触させて、A車を転倒させたとの事実を認定した原判決には、直ちにその認定に誤りがあるということはできない。

3(一)  しかしながら、当審における事実取調べの結果を合わせ検討すると、被告人車がA車と接触したと認めることについては、大きな疑問が生じる。まず、当審鑑定人秋葉光雄は、同鑑定人作成の鑑定書及び同鑑定人の当審公判廷における供述(以下、併せて「秋葉鑑定」という。)において、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕に付着している物質とA車の右ハンドルグリップを構成する物質の異同につき、熱分解ガスクロマトグラフ分析、フーリエ変換赤外分光光度計分析、電子線マイクロアナライザーによる元素定性分析の各手法を用いて検査した結果、両物質は異なるとの鑑定意見を出している。すなわち、秋葉鑑定は、擦過痕に付着する物質とハンドルグリップを構成する物質の主成分はいずれもポリ塩化ビニルであって、ポリ塩化ビニルの種類には有意差は認められないものの、擦過痕に付着する物質には、充填剤としてのケイ酸化合物と少量の炭酸塩が含まれていると推定される、これに対し、ハンドルグリップの構成物質にはケイ酸化合物が含まれている兆候がない(なお、被告人車荷台の緑色シートには、主成分のポリ塩化ビニルに充填剤として多量の炭酸カルシウムが配合されていると判断できる。)、また、擦過痕に付着する物質からは、ハンドルグリップの構成物質には存在しないSi(ケイ素)、Al(アルミニウム)、Mg(マグネシウム)の各元素が強く検出され、他に、K(カリウム)、Fe(鉄)、Ti(チタン)、Zn(亜鉛)、P(リン)といった元素も検出された(なお、被告人車荷台の緑色シートからはCa(カルシウム)が非常に強く検出され、また、Ti(チタン)も強く検出された。)、したがって、擦過痕に付着する物質とハンドルグリップの構成物質とは材料的にも、構成元素においても違っており、擦過痕に付着する物質とハンドルグリップを構成する物質は異なると判断するというのである。

さらに、当審鑑定人坪内健治郎も、同鑑定人作成の鑑定書及び同鑑定人の当審公判廷における供述(以下。併せて「坪内鑑定」という。)において、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕に付着している物質とA車の右ハンドルグリップを構成する物質の異同につき、フーリエ変換赤外分光分析、ガスクロマトグラフ分析・ガスクロマトグラフ/質量分析、電子線マイクロアナライザー分析という方法により検査を行った結果、両物質が同一のものであると判断できないとの鑑定意見を出している。すなわち、坪内鑑定は、A車の右ハンドルグリップを構成する特徴ある材料は、可塑剤であるフタル酸ジオクチルと表面部を構成するシリカ(SiO2)であり、これに対し、本件緑色ビニールシートでは、フタル酸ジオクチルとはタイプの異なる成分を主成分とし、少量のフタル酸ジオクチルを含む可塑剤と充填剤である炭酸カルシウムが特徴ある成分であり、擦過痕に付着している物質からは、A車のハンドルグリップの成分であるシリカ(SiO2)は明瞭に確認されたものの、シートの特徴成分である可塑剤(フタル酸ジオクチルも含む。)も検出された、そして、この結果から、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕に付着している物質とA車の右ハンドルグリップとは材料的にみて一致性はあるものの、本件緑色ビニールシートの可塑剤の擦過痕への移行、移動も考慮せざるをえず、また、A車の右ハンドルグリップの表面と擦過痕に付着している物質との間では、シリカの検出に当たり、分析方法によっては量的な検出力に相違があることなどをみると、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕に付着している物質とA車の右ハンドルグリップを構成する物質とは同じものであるとは判断できないというのである。

(二)  このように、秋葉鑑定においては、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕に付着している物質とA車の右ハンドルグリップを構成する物質とは異なるとされ、坪内鑑定においてもこれらが同じものであるとは判断できないとされており、右両鑑定の正確性ないし信用性につき疑問を抱くような事情は一切存在しないから、結局、両物質が同一であることを前提にして、被告人車とA車の接触の有無を考えることは許されないというほかない。そして、前記2の(四)で検討したとおり、前記2の(一)認定の客観的な状況に、前記2の(二)掲記の目撃者らの証言及び右2の(三)掲記の被告人の供述を総合すると、たしかに、本件緑色ビニールシートに残る擦過痕やひっかき傷様の痕跡の付着位置や形状、大きさや、A車のハンドルグリップやブレーキレバーの位置関係、右ハンドルグリップの先端外側面に残る擦過痕、右ブレーキレバーの先端の球形状の外側面に緑色の付着物が付いていることのほか、被告人車の走行状況や被告人車とA車の位置関係を合わせ考えれば、A車の転倒は、被告人車がA車の右横を後方から通過して行く際に、A車の右ハンドルグリップと右ブレーキレバーが接触したことにより生じた可能性があるということはできるものの、あくまで推測に留まり、それ以上に、A車の転倒が、被告人車の荷台左側面がA車の右ハンドルグリップに接触したことによって生じたと、合理的な疑いを越えて証明されたということはできないのである。のみならず、秋葉鑑定に従い、本件緑色ビニールシートの擦過痕に付着した物質とハンドルグリップの構成物質とが全く異なるものであると認めるならば、被告人車とA車の右ハンドルグリップの接触はあり得ないことにならざるをえない。すなわち、右両物質の同一性が肯定できなければ、被告人車とA車の右ハンドルグリップの接触については合理的な疑いが残るのである。また、前記2の(二)掲記のBらの証言及び右2の(三)掲記の被告人の供述によっても、A車が転倒した際、被告人車の進行状況がどのようなものであったのか、被告人車とA車との具体的な位置関係がどのようなものであったのか、全く明らかでないのである。

なお、当審における事実取調べの結果においても、鑑定人江守一郎作成の鑑定書及び同鑑定人の当審公判廷における供述(以下、併せて「江守鑑定」という。)によると、力学的解析を手法として本件事故を解明すると、本件緑色ビニールシートの擦過痕はA車の右ハンドルグリップの接触によって生じたと考えるのが合理的であり、したがって、右のような接触があったことを前提に、道路センターラインを跨いだ恰好で、ほぼ道路と平行に走行していた被告人車に、A車が右斜めに近づき、被告人車との衝突を避けようとしてハンドルを左にきって、右にロールしたことからA車が転倒を開始したとしている。しかし、右にみたように、秋葉鑑定及び坪内鑑定により、被告人車とA車とが接触したと認めることには合理的な疑いが残る以上、接触したことを前提とした江守鑑定も直ちに採用することはできないのである。そして、他に、被告人車が対向車線上に進出して、A車の右側から同車を追い越す際及び追い越して道路左側部分に戻る際の状況について、これらを明らかにする証拠はない。このように、A車が転倒した状況等に関する具体的な状況は必ずしも明確ではなく、このことはまた、A車が路上に転倒したのは、被告人の不手際や過失によるものかどうか、すなわち、被告人車がA車をその右側から追い越すに際し、被告人が、Aに注意を喚起したり、A車の側方に十分な間隔を保たずにA車の右側から追い越しを開始したため、Aを驚愕させたり、煽りを受けるなどして同車に不安定な走行をさせて同車を転倒させたものかどうか、A車をその右側から追い越した際に、A車の動静を注視して被告人車とA車との間隔を十分に取らないまま、早めに被告人車のハンドルを左にきって元の進行車線に戻ったため、A車が路上に転倒したかどうかなど、本件事故の発生について、被告人に責任を負わせるに足りる事実を認める証拠はないといわざるを得ない。

4  以上のとおり、被告人車の後部荷台に掛けられた緑色ビニールシートがA車の右ハンドルグリップの先端と接触したと認めることには、合理的な疑いが残るのである。また、原審で取り調べた関係各証拠及び当審における事実取調べの結果を子細に検討しても、被告人が、A車の動静を注視せず、被告人車とA車との間隔を十分に取らないまま早めに被告人車のハンドルを左にきってA車の進路前方に進入しようとした過失があった事実を認定する根拠を見い出すことができず、さらには、被告人車が、A車をその右側から追い越すに際し、Aに注意を喚起したり、A車の側方に十分な間隔を保たずにA車の右側から追越しを開始したため、Aを驚愕させたり、煽りを受けるなどしてA車に不安定な走行をさせてA車を転倒させたとの事実を認定する資料も全く見い出すことができない。そうだとすると、被告人は、A車の動静を注視せず、被告人車とA車との間隔を十分に取らないまま早めに被告人車のハンドルを左にきってA車の進路前方に進入しようとした過失により、被告人車の左側面の後部をA車の右ハンドルグリップに接触させ、Aを車両もろともに路上に転倒させたとの事実を認定した原判決には、所論指摘のとおり、事実誤認があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は、理由がある。

四  よって、刑訴法三九七条一項、三八二条を適用して原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により更に被告事件について判決する。

本件起訴状に記載された訴因は、「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和六二年七月一七日午前一一時三五分ころ、軽四輪貨物自動車を運転し、長野県伊那市大字伊那部一〇九一番地先市道を時速約三〇キロメートルで東進中、先行するA(当時五六年)運転の自動二輪車をその右側から追越してその前方に進入するにあたり、自動車運転者としては、同車の動静を注視し、同車と接触しないよう十分な距離を保つ地点に達してから左に進路を変更してその前方に進入すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同車の動静を注視せず、同車との十分な間隔をとらないまま早目にハンドルを左に切って同車の進路前方に進入しようとした過失により、自車左側面の後部を自車の左側に併進していたA車の右ハンドルグリップに接触させて、同人を同車もろとも路上に転倒せしめ、よって同人に脳挫傷の傷害を負わせ、同人を翌一八日午前五時四〇分ころ、同県駒ヶ根市赤穂三二三〇番地昭和伊南総合病院において、同傷害により死亡するに至らせたものである。」というのである。

そこで検討するに、原審及び当審で取り調べた全証拠を精査するも、前記三において検討したとおり、被告人が、A運転の自動二輪車の動静を注視せず、同車との十分な間隔をとらないまま早めに自車のハンドルを左にきって同車の進路前方に進入しようとした過失により、自車左側面の後部を自車の左側に併進していたA車の右ハンドルグリップに接触させて、同人を同車もろともに路上に転倒させたとの事実については、これを認めることに合理的な疑いが残るのである。

なお、当審において、検察官は、右起訴状記載の訴因を主位的訴因とし、予備的訴因として、被告人の過失内容を「被告人は、A運転の自動二輪車をその右側から追い越すに当たり、自動車運転者としては、合図をし警音器を吹鳴するなどして同車の運転者に注意を喚起して同車を道路の左側端寄りに移行させ、かつ同車との接触を避けるため同車との側方の間隔を十分保ち、その動静を注視して追い越しを始めるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、同車の運転者に何ら注意を喚起することなく、また同車を道路左側端寄りに移行させることなく、かつ同車の側方に十分な間隔を保つことなく、その右側を漫然と同一速度で進行して追い越しを始めた過失により、同車の運転者をして驚愕のあまり不安定走行させて自車左側面の後部に、自車の左側を併進していたA車両の右ハンドルグリップを接触させ」たとの事実を掲げる訴因を追加するに至っている。しかしながら、まず前提として、右にみたとおり、被告人が被告人車の左側面の後部に、自車の左側を併進していたA車両の右ハンドルグリップを接触させたとの事実を認定することには合理的な疑いが残るのである。さらに、前記三の4でもみたように、被告人車がA車をその右側から追い越すに際し、被告人が、Aに注意を喚起したり、A車の側方に十分な間隔を保たずにA車の右側から追い越しを開始したため、Aを驚愕させたり、煽りを受けるなどしてA車に不安定な走行をさせて同車を転倒させた事実についても、これを認定する根拠が全く見い出せないのである。

したがって結局、本件公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 円井義弘 裁判官 岡田雄一)

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